九州説・畿内説

2006年4月8日 歴史
 微風さまへの私信、続きです。遅くなって申し訳ありません。しかも待たせたわりに大したこと書いてません…。

 邪馬台国論争ですが、あの時代に関する史料というものがほとんどない(日本に文字文化がない)ので、各説これといった決定的証拠がありません。あとは考古学に頼るしかないのですが…。兎に角、史料としては『三国志・魏書』巻三十、東夷伝・倭人(以下、『倭人伝』と表記)で触れられているので、そちらに関して授業で聴講したことを覚えている限り書かせて頂きます。

 まず、『倭人伝』中の倭国に関する記述ですが、著者本人の見聞録ではないので、断片的な情報を繋ぎ合わせて書かれたものと思われます。しかも中華に関する記述ではなく、冊封国にはこんな国もあるんだぞ〜という東夷(日本語ではあずまえびすですね)に関する記述なので、偏見も多く含まれます。更に、前回も書いたように写し間違いもあります。こういった理由から、邪馬台国を『倭人伝』で論じる時「この史料には間違いが含まれている」という共通見解があります。間違っているのがどの部分なのか、それによって様々な説が立つわけです。しかしどれも決定的証拠に欠ける…というのは前述の通りです。

 『倭人伝』の記述通りの距離、日程でいくと、邪馬台国は海上になります(確かその筈…)。多少の誤差を考えるとして、一番近いのは九州。大きな国もあった様ですし、それが邪馬台国だったのかもしれません。これが九州説。もう一つが、古墳や遺跡の多い畿内説。ここに生じる「ヤマト」と「ヤマタイ」は音も近く、関係があるのかも…?しかしこれには問題があって、『倭人伝』の記述通りの方角でいくと、どうやっても畿内には辿り着けないのです。それならどうやて畿内説をプッシュするのかというと、それは「古地図」です。先生方によれば昔の方角観念は今と違っており、その方角観念でいくと畿内に辿り着くということらしいです。確かに十五世紀初頭に作られた朝鮮の地図(日本の部分は「行基図」です)では、タツノオトシゴがひっくり返っています。そんなアホな、と思いますが、昔は南のつもりが東だったりしたのかもしれません。

 邪馬台国の場所については九州説と畿内説の二つが有力ですが、『倭人伝』の記述中「伊都国(いとこく;九州、福岡)」までは比較的信頼のおける記述だというのが大方(の筈)です。理由は、伊都国に帯方郡(朝鮮半島)の大使が常駐していたから。常駐地域には勿論詳しいでしょうが、邪馬台国はそこからさらに行った所にあるので、あまり詳しくなかったのではないか、と。道のりの表記の仕方も、伊都国より後では変わってきていますし。ここから後の記述を巡って二説が争っている模様です。

 私個人としてはどっちでも良い(笑)のですが、どちらかと言われれば畿内説でしょうか。鏡もいっぱい見つかっていますので。対立する狗奴国(くなこく)に見せ付けるように、大陸の魏から「親魏倭王」の称号と「黄幢(はた、軍事指揮権の象徴)」を貰った卑弥呼のような政治能力のある女性が近畿圏にいたのかと考えると嬉しいですよね(彼女が指示したわけではないでしょうが)。

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