歴史と名の付く

2006年11月13日 歴史
 本日演習(教職関係)の発表が終わり、ほっと一息のへろんです。魏晋南北朝〜唐の大帝国までの流れを概説してやりました。一応世界史で受験したのに、人名とか用語とか色々忘れてる…というわけで山川の教科書や用語集に助けられながらお勉強。歴史大系などの本も読む。ふむふむ。隋とか唐って純粋な漢民族王朝を主張してるけれど、結局は鮮卑との混血なんですね。隋の文帝なんて、教科書には『北朝(北周)から出た』としか書かれていませんが、北朝でも有力な家の出で、唐の高祖は更に上の家柄ですよ。

 南北朝時代と隋・唐時代は教科書の記述で離れてしまっているので、なかなか繋がって考えられませんが、歴史というのは世の流れを追っているわけですから、当然繋がっているわけです。その辺りがわかるようになると、歴史の勉強ってとても面白くなってくると思うのですが、如何でしょう?教科書の記述はどうしても簡潔にする為に端折られている所が多いんですよね。だから教科書だけ読んでいては???となることがよくあります。そういう時には図書館などに行って、通史的な本を読んでみるとよりいっそう理解も深まると思いますよ、高校生の皆さん!

 通史の本を読んで、なんだか不覚にも「中国史面白い!」と思ってしまいました。元々三国志や三侠五義のような小説は好きだったのですが、どうにもこうにも国の興亡や思想が複雑怪奇で理解しがたく、中国史に対しては苦手意識があったのですよ。でも今回のお勉強で、少し好きになれました。まぁ、間違っても東洋史専攻にはならないとは思いますが(ごめんなさい、S一郎先生、O本先生…)。だって、演習の後に行った日本史近世の教授の部屋(研究室)にある本や先生のお話しが素敵だったんだもの…!洛中洛外図屏風とか、名所絵図とか。とにかく、私は歴史と名のつくもの全てに興味があるようです。八方美人な性格がこんなところにも(笑)。後はそう、広く浅くならないように、広く深く知識を身に付けていきたいですね。・・・そういえばM本教授の部屋は中でU島教授の部屋と繋がっていました。つーつー。扉があるのに、開けっ放し。本の貸し借りをしやすくする為でしょうかね。中世と近世ですけど、国史大系みたいな本ならどの時代も使いますもんね。

笹沼さんへのメッセージチョコ企画(11月5日の日記参照)、メッセージ案の受け付けは締め切りましたが、お名前だけでのご参加はまだ受け付けております。こちらは12月の半ば、17日頃を締め切りとさせていただく予定です。「どんなメッセージになるの?」「どんな形で送るの?」といったお問い合わせだけでも構いません。どうぞご連絡ください。三日以上経っても返信がない場合、メール事故のおそれがあります。その時はこちらにコメントをいただけるとありがたいです。

ケータイ考古学

2006年5月9日 歴史
考古学の講義で、面白いなぁと思ったお話を。

 遺物の年代を推測する方法に形式学というものがあります。これは進化論の考え方に立って、モノは変化(進化)するということを前提に、相対的な年代を特定するやり方です。この形式のモノはあれよりも古い、あるいは新しい、ということしか言えないので、絶対的な年代は分かりません。けれど、様々な種類のモノを組み合わせることである程度の時期は特定できます。同じお墓の中から鏡や剣、土器が副葬品として出土すれば、それらのモノは同時期だと分かります。そして、それらと同じ特徴を持っていれば他で出土したモノも同時期だと推測できるのです。

 で、この形式学ですが、現代社会にも応用が利きます。無線機の様な携帯電話→電話の子機サイズ→小型化→パカパカ携帯→etc...これに女子高生の格好等を合わせると年代特定ができるかもしれません。まぁ、私が小学校低学年の頃は携帯電話ではなく、ポケベル+ガングロ+ルーズソックスが全盛だったように記憶していますが。 

doldrums

2006年4月19日 歴史
 西洋史の講読ででてきた英単語。船に関係した元の意味では「無風帯」とか「べた凪」といった意味ですが、そこから派生(逆かもしれない)して「鬱状態」というような意味もあります。

 私は海洋冒険小説の『オーブリー&マチュリン』シリーズで先にこの単語に出会っていたので、「ドルドラム」と聞くとまず進むに進めなくなった帆船を思い浮かべます。飲用水や新鮮な食料は無くなっていくし、船底に海草はくっつくし、船の周りの海水は汚れていく(ヘッドと呼ばれる用を足す所には肥溜めがない。要するに、巨大な水洗便所)し…。乗組員もやる気を無くしていくイメージです。映画『マスター&コマンダー』を観れば視覚的に分かると思います。この映画は本当におすすめです。船の速度「ノット」の測り方や、ハンモックを吊っての船上生活など様々なことを知ることができます。英国海軍のお話なので、勿論ドンパチもありますよ。

九州説・畿内説

2006年4月8日 歴史
 微風さまへの私信、続きです。遅くなって申し訳ありません。しかも待たせたわりに大したこと書いてません…。

 邪馬台国論争ですが、あの時代に関する史料というものがほとんどない(日本に文字文化がない)ので、各説これといった決定的証拠がありません。あとは考古学に頼るしかないのですが…。兎に角、史料としては『三国志・魏書』巻三十、東夷伝・倭人(以下、『倭人伝』と表記)で触れられているので、そちらに関して授業で聴講したことを覚えている限り書かせて頂きます。

 まず、『倭人伝』中の倭国に関する記述ですが、著者本人の見聞録ではないので、断片的な情報を繋ぎ合わせて書かれたものと思われます。しかも中華に関する記述ではなく、冊封国にはこんな国もあるんだぞ〜という東夷(日本語ではあずまえびすですね)に関する記述なので、偏見も多く含まれます。更に、前回も書いたように写し間違いもあります。こういった理由から、邪馬台国を『倭人伝』で論じる時「この史料には間違いが含まれている」という共通見解があります。間違っているのがどの部分なのか、それによって様々な説が立つわけです。しかしどれも決定的証拠に欠ける…というのは前述の通りです。

 『倭人伝』の記述通りの距離、日程でいくと、邪馬台国は海上になります(確かその筈…)。多少の誤差を考えるとして、一番近いのは九州。大きな国もあった様ですし、それが邪馬台国だったのかもしれません。これが九州説。もう一つが、古墳や遺跡の多い畿内説。ここに生じる「ヤマト」と「ヤマタイ」は音も近く、関係があるのかも…?しかしこれには問題があって、『倭人伝』の記述通りの方角でいくと、どうやっても畿内には辿り着けないのです。それならどうやて畿内説をプッシュするのかというと、それは「古地図」です。先生方によれば昔の方角観念は今と違っており、その方角観念でいくと畿内に辿り着くということらしいです。確かに十五世紀初頭に作られた朝鮮の地図(日本の部分は「行基図」です)では、タツノオトシゴがひっくり返っています。そんなアホな、と思いますが、昔は南のつもりが東だったりしたのかもしれません。

 邪馬台国の場所については九州説と畿内説の二つが有力ですが、『倭人伝』の記述中「伊都国(いとこく;九州、福岡)」までは比較的信頼のおける記述だというのが大方(の筈)です。理由は、伊都国に帯方郡(朝鮮半島)の大使が常駐していたから。常駐地域には勿論詳しいでしょうが、邪馬台国はそこからさらに行った所にあるので、あまり詳しくなかったのではないか、と。道のりの表記の仕方も、伊都国より後では変わってきていますし。ここから後の記述を巡って二説が争っている模様です。

 私個人としてはどっちでも良い(笑)のですが、どちらかと言われれば畿内説でしょうか。鏡もいっぱい見つかっていますので。対立する狗奴国(くなこく)に見せ付けるように、大陸の魏から「親魏倭王」の称号と「黄幢(はた、軍事指揮権の象徴)」を貰った卑弥呼のような政治能力のある女性が近畿圏にいたのかと考えると嬉しいですよね(彼女が指示したわけではないでしょうが)。

邪馬壱国

2006年4月2日 歴史
微風さまへの私信です。以下、思ったことをつらつらと。

史料というのは誰が(どのような立場の人間が)何を目的として書いたものかを把握しておかないと、結構な落とし穴にはまったりします…。あと、昔の書物は手写しですから写し間違いも生じてきます。件の陳寿著『三国志』も最古の版本で南宋時代のもの(12C)です。しかもそこに書かれているのは邪馬台国ではなく、邪馬壹国(壹=壱)。ただし、『倭人伝』を引用したそれより古い書物(『後漢書』など)では邪馬臺国(臺=台)と書かれている為、「壱」は写し間違いで「台」が元々書かれていた文字であろうと推測できる訳です。

『三国志』ついでにもう一つ。三国のうち帝紀があるのは魏のみ。なぜなら『三国志』を書いたのが晋の陳寿だから。晋は魏帝から禅譲を受けて成立した国。よって魏を正統としたわけです。強制的であったとはいえ、一応魏の皇帝は後漢の皇帝から禅譲を受けていますし。他の二国は単なる「自称」である、と。こんな風に正史でも国の立場によって書き方が変わってきたりします。

でも『三国志』の場合、確かにその時代一番人口の多かった(要するに当時の中心地)中原を制したのは魏なので、強ち間違ってはいない気もしますが。呉の辺りは湿地帯で人口も少なかったみたいですし。南部が栄えていくのは呉以降、特に北方民族に追われて都が南に移ってからです。呉の時代のものを足掛かりにして発展していったのでしょうね。

今日はここまで。邪馬台国論争についてはまた後日。


追記;ピントのぼけた文章ですみません。疲れた頭のまま一気に打ってしまったもので…(人はこれを言い訳という)。半年前に聞いた話を思い出しつつ、明日はもっとこましな文章を書きます!
 うーむ…私に古代史は無理かも。ヲホドノオオキミ(継体天皇)の所で王統が変わるのはいいとして、この人、ヤマトの王統と、男系では繋がっていない…?いや、繋がってるのか?本当にわけが分かりません。時代的に史料に乏しいとはいえ、その解釈の幅が広すぎてもう何がなんだか。それが古代のロマンなんでしょうけど。
 明後日提出の日本史のレポートがあるのに、折角ちゃんと朝から起きたのに、やる気が起きず、ネットを徘徊。そしてニッキを書く。
 あれですよ、天皇(すめらみこと、てんのう)の称号がいつから使われるようになったとか、ぶっちゃけどうでもいいことなんですよ。でも面白いんですよ。だから歴史を学ぶんです。そうなんです。

以上、日記を書く文体を統一できていないへろんでした。

本多葵

2006年1月15日 歴史
本多葵
我が家の家紋です。
右離れの立ち葵。
うちは本多氏ではありませんが
頂きものらしいです。
どこかの殿様からの。
いつか我が家のルーツや歴史を調べてみたい。私の願望です。人間、アイデンティティを確立するには自分の出自やルーツを知ることが大切だと思うのです。気にならない人は知らなくても構わないと思いますが、皆さん、気になりませんか?
一日遅れでレポートを提出に行ったら、
「あれ、貴女出してなかったっけ?」
と言われた。もしレポートを提出している私の姿が見えたのなら、先生、あなたが見たのは幻覚です!そんなに優秀な良い子ちゃんに見えますか、私!?結構いい加減な奴なんですよ?チョーサーどうでもよくなってきたとか書いてごめんなさい!
提出遅れてすみませんと謝ると、一日くらい何でもないとのお言葉。減点覚悟してたのに、先生優しい!三回生になったらしんセンセイのゼミに入ろうかしらと気持ちが傾きました。卒論指導も優しいらしいし。あー、でも考古学にも古代史にも近世史にも興味があるので…。まだまだ専攻決められないですね。
 昨日の夕刊で気になったことがありました。『SAYURI』のレビューだったのですが、そこに「島原の花魁道中の様な絢爛さ」という表現があったのです。これ、どこがおかしいか皆さん分かりますか?

 京都の島原に花魁は居ません。今も昔も島原にいるのは「大夫」さんです。位を持っていて、赤を許され、宮中に参内できるのは大夫さんです。故に矜持も高いです。江戸吉原の花魁と京都島原の大夫は違います。
 
 そんな細かいことはどうでもいいと感じられるかもしれませんが、私はこれが新聞という公共性の高いものに載っていたのが許し難いと思います。誤情報を多数の人に植え付けることになるのです。書き手はもっと責任をもって書いて欲しいものです。

 かく言う私も無知な人間なのであまり偉そうな事は言えた義理ではないのですが。

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